こ の ペ ー ジ は ネ ッ ト 上 に 掲 載 さ れ て い た、 過 去 記 事 の 再 掲 載 で す

遺 伝 病 に つ い て          静 岡 県 立 こ ど も 病 院  遺 伝 染 色 体 科     医 長  長 谷 川 知 子

<遺伝病とは>

 遺伝病は、遺伝性疾患とも言います。遺伝病という言葉を聞くと、大体みんなが思うのは、「遺伝病は患者とか家族が苦悩し社会負担になる」という事です。でも本当にそうなのでしょうか。遺伝病がなくなれば、それは解決するものなのでしょうか。 極端な事を言えば、これは無くなるものではない。むしろ遺伝病が無くなる時は、人間が消える時といえましょう。なぜなら、遺伝病が無いという事は、自体の遺伝そのものも無いという事なのです。人間は親から子どもへの遺伝によって生き、社会をつくりあげてきたからです。ですから、私達は遺伝性の病気というものと、一緒に生活していかなければならないのです。

<遺伝病のイメージ>

 遺伝性の病気というものに、どういうイメージがあるかというのを、色々な方にイメージテストを行ってみました。400名近くの人に聞いて、遺伝病というと、どんな事が頭に浮かびますかという事を書いてもらいました。回答していただいたのは、大学の医学部の学生さん、看護学校の学生さん、助産婦さん、それから、静岡で療育関係の会議があった時にお願いした関係の方々や養護学校の先生です。どちらかというと、こういう事に関心のありそうな方なのですが、「遺伝病と聞いてどういう感情がわくか?」という事を聞くと、「恐い」とか「逃げたい」、「嫌だ」とか「不安だ」「苦しい」という感情がわくと書いています。  

 ところが、「胆石症」と聞いてどんなイメージがわくかというと、胆石症も家族で発症しやすいので遺伝子が関係した遺伝性疾患のひとつなのに、「遺伝病」の時と全く違って、「痛い」という事がほとんどで、「嫌だ」、「恐い」などのイメージは非常に少なくて、「恐くない」という人さえもいました。このように、皆さんの感覚のなかでこんなに差があるのです。ですから、遺伝病であっても胆石症と、遺伝病そのものの名前との間にこんなに差があるという事は、「遺伝病」という言葉に、人は大きな偏見を抱いているのだということがわかります。 

 遺伝病と聞くと、治療の仕方がないと思い込みますが、胆石症と聞くと、多くの人たちが、胆石症は治療ができると言います。このように、天と地の違いがあります。同じ遺伝病でありながら、遺伝病の名前では冶療ができない、胆石症だと治療ができるというイメージを多くの人が持っているのです。

 きっとみなさんも同じで、「遺伝病」という言葉だけに振り回されているのです。

 人間というのは、遺伝と環境だけでできているのです。そして遺伝病にも、環境がかなり影響している事は確かです。人間が遺伝でできているというのは、考えてみるとすぐわかる事で、親と顔も似ているし、体格も似ているし、性格も似ています。得意、不得意、おしゃべりかどうか、ということさえも似ているでしょう。

 たとえば、4歳〜5歳になってくると、ひどく落ち着きのない子が集団の中で目立つ様になってきます。その時に、「誰かに似ていませんか?」と尋ねると、たいてい誰かに似ていると言われます。例えば「お父さんが小さい頃、落ち着きがなく、その親が児童相談所にまで行ったということですが、大人になってすっかり落ち着いてしまった。」というケースがありました。だから、「この子の将来も大丈夫そうですね。」というお話ができるのです。今の段階で、落ち着きがないというのは、病気のせいということもあるのでしょうが、それだけではないという可能性もあるのです。

 人間の遺伝子というのは、体の中で色々なものをつくっています。例えば、人間の3大死因は、心臓病、脳卒中、癌ですが、そのいずれも遺伝子が関係した一種の遺伝病です。寿命というのも遺伝子が関係しているのです。ですから、人間というのは、遺伝子に支配されていて、そして、環境によって早く病気になるという事も、ならないという事もあるのです。かぜの症伏のようなありふれた事でも、かなり遺伝的な関係があります。しかし、遺伝だけではなくて環境も大きい訳ですけれども。遺伝が関係していない病気というのは、たぶん事故ぐらいでしょう。実は、子どもが亡くなる一番の原因というのは、不慮の事故です。遺伝でない原因の方がずっと、ある意味では不幸でずね。でずから遺伝病を

恐がるよりも、不連の事故に気をつけたほうがいいのです。

<遺伝病は誰の責任でもない>

 遺伝病は、親の責任ではありません。誰の責任でもないのです。

 遺伝病になると、よくお母さんが責められるのではないでしょうか。「うちの家系にはそういう事はないのだから、母親側にあるのでは…」と言われてしまう事がよくあります。それは全くの間違いで、入間が遺伝病をつくろうと思ってつくる事はできないのだから、それを責めるのはおかしいのです。責めたほうが罪なのです。

 病気のある人が人に何か言われると、何だか自分が悪い、あちらの方が正しい様な気になってしまいます。でも、普通に見えたっておかしい人はたくさんいますから、責めるほうがおかしいのです。そして、人間にはどうする事もできない事を責めるような人こそ何も知らないかわいそうな人なのです。                        

 遺伝病というのは、親から子どもに伝わっていったものもあるし、そうでない突然変異もあります。またその子だけ突然変異でそうなってしまったという事もあります。両親の間に生まれた子どもが遺伝病で、両親のどちらもその病気でないという時でも、親から遺伝子が伝わったという事もあります。その多くは両親の両方が遺伝子を半分ずつ持っていて、子どもがその同じ遺伝子を2つもらってしまって、初めて症状が出た劣性遺伝なのです。(図参照)

 色々な遺伝のタイプがありますので、家族で出ていなかったから、遺伝病ではないという事は全く言えませんが、実際は親の体の中にはなくて子どもに伝わる時につくられる遺伝病が一番多いのです。                             

 私達は、すべての人が、病気になるかもしれない遺伝子、または、1人では出ないけれども相手と一緒になると子どもが病気になるかもしれないという遺伝子を大体10個は持っています。ですから、遺伝病にならないと思っていても出てきていないだけで、誰でも明日出るかもしれないし、持っていても気付かなかっただけかもしれない。だから、遺伝病になった人はたまたま運が悪かっただけの事で、それに対して誰が何をどうできるものではない訳です。                               

 また、遺伝病を恐れて中絶などでおさえたとしても、病気を断ち切ることはまず不可能です。遺伝病ではなくとも、今問題になっている感染症などでO一l57とか、エイズとかが人間が感染症を抗生剤などでおさえたとしても病気はどんどん出てきてしまうのですから自然の力はすごいものなのです。

く100%障害児はありえない>

 遺伝病というものが何であるかをちゃんと理解して、遺伝病があっても安心して生活できる社会をどうやってつくっていくかを考えていくことが、すごく大事ではないでしょうか。生命や、生活に困ることがあれば、それに困らない社会をつくっていくことが大切です.遺伝病はあるのが当然なのてすから、当然、病気の人がそこにいますが、普通の社会に入れない事が一番問題なので、そのためにどういう形で支援していくかという事です。 生活面などで難しいところを、富岳学園のような療育のセンターなどで指導してもらう事も必要でしょうし、病気を治していく、それから、痙攣があれば、痙攣をコントロールする。そういうことで、本人が生活しやすい様にしていくことと共に、社会をより良く変えていくことが必要です。社会で自然に受けとめる、その社会の中で皆と対等にできるというようにしていく方法を考えていかないとなりません。               

 施設に入っている人が、そこから出てくると何もできない、一般の人とつきあえないということがよくありますが、それが一番の問題であって、社会の中で対等に付き合うことで変えていかなければいけないのです。本人から要求は出にくいので、親御さんから社会に知らせていくのが一番なのです。

 私たちも障害者という名前にはすごく抵抗を感じます。障害者などという言葉はそういう特別な人間がいるように聞こえますが、たぶんこの言葉は行政上の用語だろうと思います。行政上で援助を必要とする人か、そうでない人かをどこかで区切る為にできた言葉だと思います。1975年にWHOという国際機関で、障害者の権利を守る目的から言葉をきちんと定義しています。それは、生活上、1人で、全部または一部ができない人を障害者というのだそうです。                      

 そのとき、何を基準にするか?ということですが、例えば、お母さんがいないと食事の支度ができないでじっとしているお父さんがいるとすると、そのお父さんは障害者になってしまいますね。でも、お父さんは、お母さんがいなければレストランに食べに行けるといった場合、そのお父さんは障害者でなくなる訳です。障害者であるかないかはその違いかもしれません。ですから、障害者というレッテルを貼って、この人は何もできない人なんですよという、そういう差別の名前ではないのです。

 子どもの場合は障害児といいますが、100%の障害児などというのはありえないのです。健常児と障害児というのは1人の人間として同時にあっていいと思います。普通、人には障害の部分もあって、その障害を健常な部分がカバーしているのではないでしょうか。たとえば私は小指が小さくて、ボーリング場に行くとそれがハンディになりますが、そうでなければ、別に何の障害にもなりません。ピアニストになろうとも思いませんし…。ですから、どういう場面で何が障害になっているかという事なのですから、それはほんの一部にすぎないのてす。ただし障害の部分が大きければ、もちろん、日常の生活の中で大変になってくるのだから、やっぱりそれだけ援助が必要となってくるのです。

 もし健常な部分が一つもなければ、絶対に生まれてきているはずはないんですよ。ですから、どんなに重度のお子さんでも、ニッコリ笑ったりするように、健常な部分が必ずあるのです。

 医者など医療関係の従事者は障害の部分を見ます。そして、それをどうやって小さくするかという事を考えます。病院に行くと、すごく病気になった気分になって嫌なんですけど、それは病気のその部分しか見てないからなのです。Dr.達はたぶんそこしか見ていないのですが、それは仕事上やむを得ない事ですが、皆さんは生活者、保護者であり、子どもを育てていく親であるのですから、障害を小さくしていくという事をDr.と相談していく事も大切ですけれども、先ず、健常な部分があるということを見て、その部分を大切にしながら、障害についてわからない事について、話し合っていくことが必要です。

 ですから、その障害だけを見て保育するのはおかしいです。例えば、ある保育園の保母さんが、ダウン症の症状について教えてくださいと言ってきた事があります。でも、私はそのまま答えませんでした。保育園でダウン症のお子さんがいて相談してきたのでしょうが、「ダウン症の子が来ている」のではなくて、「**ちゃんという個性のある子がいて」その子がたまたまダウン症をもっているだけなのです。生活のなかで特に問題がなければ、何か症候群があろうとなかろうと関係ないのです。その子が生活の中で問題があった時に、その問題がダウン症の問題なのか、保育者が勝手に症候群のせいにして全部先まわりしてやってしまった事による問題なのかという違いを、きちっと理解しなければなりません。「病気のこども」というのを全面に出してはいけません。子どもの専門家であるならば、その子ども全体をしっかり見つめる必要があります。

 また、その子どもを一番理解してあげられ、ずっとその子どもを見ていけるのは親御さんしかいません。学校にいっても、卒業しても困らないように、親も子どもと一緒に精神的に自立しなければなりません。何でもすぐに手を貸してしまう親は自立していないし、子どもも自立することなどできません。まず、親が自立しなければならないのです。

<社会を変えていくのが、病気の人や障害を持った人のハンディキャップを克服する第一歩>

障害がある事によって社会的不利(ハンディキャップ)になることが多いのでずが、その社会的不利という事をなくしていけば障害はなくなっていくはずです。そのため社会の見方を単純でなくもっと広く深くして、障害があっても一般の社会の中で生活していけるようにしたいものです。障害を持った人もそうでない人もいるという「色々な人がいるのが当たり前」の社会が必要なのです。

 むしろ健常な人だけがいる社会というのは異常なのです。病気や、障害を持った人と自然に接した経験がない、また、統合保育・教育を敬遠する傾向があると、偏見や差別を生むのです。こういう経験があれば、同し人間なのだという意識が生まれ、自然に社会参加も進むのです。

 「障害児」というのはつくられてしまいます。つまり、「障害児だというきめつけ」から「教育・訓練しなくては」という思いで焦り、「教え込み」、そうしてもできないと「障害児だから仕方ないという諦め」から、「過小評価」をしてしまい、また「障害児だというきめつけ」を行なってしまうというサイクルで、本物の障害児がつくられていってしまうのです。

 ある、ダウン症のお子さんに対する遊びの場面での2人の先生の声かけの違いを示しますが、ある先生は「集団に入のはまだ無理ですね」と言い、ある先生は「よく見ていますね、ちゃんと覚えていて家でやるのはすごいことですよ」と言ったそうです。どちらの先生の下で子どもは伸びるでしょうか。後者の見方を続けていくほうが、このお子さんがすばらしい伸びを見せるということは誰でもわかりますね。               

 大人は自分たちが子どもを観察していると思いこんでいますが、むしろ子どものほうこそ大人を観察していてよくわかっているので、大人は子どもにふりまわされる事があります。それを親もよくわかっている必要があるのです。

く統合保育の最大の収穫>

 統合保育を行なう事の収穫は、とても大きいものがあります。まず世の中には色々な人がいるという事が当たり前なのだという事を知ります。一人一人違うから貴重である、また、健常といわれる子どもも全部同一ではないという事(兄弟でも違いがありますから)を自然と学び、違うからといって差別してはいけないということを自然に知っていくのです。さらに病気のある人や、お年寄りを恐がらなくなり、優しくなれます。また、歩けなかった子どもが、歩ける子どもを見て歩ける様になったという事があります。障害のある子が、標準の行動を自然に知り、当たり前の行動を当たり前にできるようになるのです。 何でもできないと思ってやめてしまってはだめで、少しずつ色々な経験を積んでいく中て、富士山のように裾野から積み上げていくことが大切です。また、決して諦めないことが大切なのです。                                 同じ発達をする子どもはいないのです。それだけの子が少しずつ違う発達をみせるのです。先生や保母さんは、問題となる行動・遅れがあるかどうか注意して見ていくことが必要です。それが、健康的な発達上の筋道に沿った自然な過程かどうか。もし自然な過程でなければ援助の必要がある。また、手をかけすぎて、その子どもが出来る事も出来なくなってしまう事に注意をすることも必要です。

<先生のすること、してはならないこと>

 では、先生は何をすれば良いのでしょうか。先生のすることは、発達をよく理解し、子どもと一緒に行動する事から、自然の中で流れをよく観察し、記録をして子どもの発達を見つめた援助をするのです。「手をかけるより目をかけよう」ということです。子どもというのは思ったより能力が高いのです。子どもに手を出しすぎないで、子どもを信頼すると、子どもの方から思わぬ色々なアドバイスをしてくれたりするものです。これは、一般の子どもだけでなく、障害を持った子どもにも言える事なのです。           

 一方、先生のしてはならないことは、1)診断をしない2)レッテルを貼らない3)悪い点を親に話さない              医者が診断をするためには、方法や技術を専門的に勉強しないとなりません。それよりも先生たちが間違った診断は危険です。普通の生活のなかで、何が問題なのか見ることが重要です。問題に対してどう関わったらいいのか、または、関わらないほうがいいのかという事を考えるのです。レッテルも同じです。どうすればいいのかを話し合うことが大切なのであって、悪い事だけを話しても何の解決にもなりません。

くあなたと子どもの共通点は?>

 「障害児だから『ない』というのは根拠のない思い込みなのです。」子どもの頃を思い出してみると、「何だ、私の小さい時と同じじゃないか」と思うことがよくあります。そんな事で悩んでいるなんておかしいという事も結構あるのです。子どもが言葉をしゃべれないという時、自分が外国にいって全く言葉がわからない時のことを思い出してみてください。子どもがこだわっていて「この子はこだわっていて困る」という時、大人がこだわってはいませんか?大人がこだわるからこそ、子どもがこだわるのです。大人がこだわらないで「まっ、いいやこんな事」などと考えれば別に気にならないし、そうすると子どももこだわらなくなるのです。意地の張り合いになってしまっている事があります。そういう時、どちらかが引かなければなりませんが、子どもの方から引くということはできません。引くことが出来るのは大人なのだから、大人の方から一歩引いて、頭を冷やして見る必要があります。

 障害をもっていると、まわりの人から色々嫌なことを言われて気になってしまうことが多いのですが、親が「何を言ってるんだ、そんなこと…」と思って守ってあげればその子どもは大丈夫なものなのです。親が障害にこだわってあれこれ悩んでいると、結局親が一番偏見を持っているということになってしまいます。色々な障害に対する偏見というの

は、自分の心に先ずあることじゃないのかという事を考えていく必要があります。

<親と子どもは同い年>  親になるということは、子どもの誕生と一緒にそうなるのです。

子どもばかりに発達を要求していませんか?親も自分がちゃんと発達しているかどうか、もう一度見直してみることです。そうすると無理な要求をしているんじゃないかと反省するかもしれません。安田京子先生が言われていましたが、親に4歳の子どもの絵を描かせると、7歳か8歳の子どもの絵を描くそうです。いかに親が子どもの発達に期待をかけてしまっているかよくわかります。それに、子どもはどんなに遅れているように見えても、ちゃんと発達しているものなのです。

く「治療・訓練が上、遊ぴ・生活は下」という幻想>

 こう思う人は多いでしょう。でも、毎日訓練・治療されたら自分たちでも嫌になりますから、自分たちがやっていてとても耐えられないような事を、子どもにさせてはいけないですね。特に子どもには遊びが一番大事です。日常の身辺自立などは遊びの中からやっていけば、自然にできてしまいます。それから、お手伝いが好きな子は、お手伝いの中で色々な事をしていけば就職に何も困らないそうです。やっぱり、遊ぴの中で色々な経験をして、自分でやりたいと思ったことをやれるようにしてあげる事が将来必ず役に立つのです。

くEQこころの知能指数>

 IQのことは皆さんよくご存じでしょうが、EQ(エモーショナル=感情)というのは、ある場面に合ったことが出来るか、自分を抑えることが出来るかという力をいうそうですが、こういう事が将来大変役に立つのです。このEQについて書かれた本の中でも「EQは遊びの中で培われる」と書いてあります。こういう事をもともと日本人は大事にしてきた民族なんですけど、最近受験戦争などの勉強・勉強で本当に大事なことが出来なくなってきてしまっています。一流大学を出た人が、常識的な事が出来ないという場面もあります。とても恐い事です。

 それには、ただ「いけません」と叱るだけでは駄目で、わがままを言うとどんなふうに周りが困るのかを考えさせる必要があります。自分で、こういう事をしたらこのように困るからやってはいけないのだという事を納得できる様に、心の知能指数を上げそいく教育が必要なのです。

 知性というのはIQや学力だけでは測れません。知性を磨くためにはメリハリのある教育で人格的知性を伸ばしていくのです。本人が自分で考えて、自分でどうしたらいいのか見付けていける人間になるために、どのような援助をしていったらいいのかという事が一番大切なことなのです。

く話ができれば子どもを理解できるのに(?)>

 というのは錯覚じゃないかと思います。同じ言葉でも意味が違っていることもありますし、よく喋る子どもからの無言のサインはわかりにくい事が多いのです。「意外と、言葉がまだ出ていないとか喋れない子の気持のほうがわかりやすいですよ。」とよくお母さん方にお話します。

 もちろん言葉は大切ですが、その前の言葉が出る前の段階(内言語といいますが)に、しっかりと、ピシッとわかってジェスチャーでやったり、親子の気持ちが伝わっていないと、言葉だけで結局お互いの気持ちが通じ合わないということになります。反対に言うと、一生言葉が出ないお子さんでも十分通じ合えることが出来るのです。

く言葉の働きとは>

1)コミュニケーションの道具であり2)行助の調整・コントロールをするためのもの3)思考(自分の頭で考える)ための遵具であるわけです。

 しかしこれは、外に出てくる言繋じゃなくてもかまいません。外に出てきていない言葉で十分働きがないと、言葉がその働きや目的とは全然違ったところに出てきてしまうことがあります。例えば、独り言ばかりになってしまって、コミュニケーションがとれないとか、無理に教え込んでしまって全然会話を楽しめないという事があります。

くこの言葉を1日何回言いますか?>

 親御さん達の好きな膏葉は「だめ」「がんばれ」「はやく」ではないでしょうか。これは絶対に言ってはいけない言葉という訳ではなくて、癖のように1日に何回も言うことが問題なのです。本当に必要なときに、バーンと言わないと効果がなく、1日にくりかえし言っていると、子どもは大人の言うことを聞かなくなります。この言葉が耳に入ってもこれが言葉として作用しなくなり、言うことを聞かない子どもになるのです。

 また、「がんばる」というのは、どういう事を言うかというと「我を張る」という事なんですね。よく親御さん連が相談に見えたときに「頑張らないでね」と言うんですが、たしかに人間というのは一生のうちでどうしても頑張らないといけない時があります。その時の為にもエネルギーを貯えておくためにも、ふだんは頑張らないほうがいいのです。

く多動とは>

 その定義は、「・各年齢で予想される以上に落ち着きがなく動きすぎ、注意が集中できない・人の話を聞いていない・勝手すぎる・予想のつかない行動をとる・他の子とじっくり関わらない」という事ですが、生活のなかで別に困らないほどならば特に問題はないと思います。

 でも、生活に支障をきたす場合には、どう関わってあげるかを考えることです。こういう子ども達に対して、一生懸命追い掛けたり、言葉を一杯かけると、大人のほうも多動になってしまい、子どもの多動が促進されてしまいます。大人は落ち着いて対応したほうが子どもも落ち着くのです。

く人のため>

 「ひとのため」ということばを漢字で書くと、「人の為」と書きますが、「偽」というようにもなってしまいます。今、本当にこの子にとって必要な事は何なのかをよく理解した上でかかわらないと、場合によっては「偽」になってしまう事を忘れないでください。