| 2013年3月23日 (土) |
色 と は、人 の 感 覚 で あ る |
現在、多くの方々は色を感覚としてのみ理解しているのではなく、質的量的、物の様な概念で(客観的対象物の様に)色を理解していると私は考えています。
それは、色と言う概念が工業規格や色彩学では数値や記号によって定量化し規格とされ、質的量的、感覚で利用出来るようになっている事、同じ光源での色比較では、お互いが殆ど同様な質的感覚で色物の区分がされ、又、色を質、量の様に表す言葉に「色の付き具合、色を重ねる」等と言っている事からです。
色は主観的な(感覚的)ものでありながら客観的な(目の前の対象物の様な)ものとして扱われている事が普段の生活の中では殆どではないでしょうか?
例えば、塗装、染物、印刷屋さんは(主観的)色の見え方、濃淡を(客観的対象物の)顔料の種類、多少と関連づけ、電気屋さんは(主観的)色光の見え方、明暗を(客観的)発光物の種類、電気の強弱と関連させ理解しているのではないでしょうか?
「リンゴは■赤いから■赤く見える」一見正しい理解に思えますが、リンゴが(主観的に)■赤く見えるのは(客観的)対象物であるリンゴの表面が■赤として感ずる光の波長を反射させる性質の為で、それを人が■赤と認識するのは「(主観)感覚を司る眼の感覚神経による」と理解するのが正しい考え方ではないでしょうか?(又、光は現代物理学では空間を伝わる特定波長帯の電磁波と解っていて、その波長の違いを人は色として感ずるのであり、光に色と言う性質が有る訳ではない。)
花を見て「美しい」と感ずるのは(主観的)人の心であり、花は人に「美しい」と言う感性を司らせる何か(客観性)を持っているとは言えても、花自体には「美しい」と言う物は無く、「花が美しい」と言う感覚(価値)は花と人との相対関係で生ずるものである事が解ります。
「リンゴが■赤い」と言うのも、人に■赤と認識させる何か(客観性)をリンゴが持っているとは言えても、リンゴその物が「■赤い」訳では無いと理解するべきで、人が■赤と感ずる光の波長を反射させたリンゴと人との相対関係で生ずる人の感覚であると理解すべきと考えます。 (リンゴに当てる光を■赤と感ずる波長以外の単一波長光を当てたとしたら当然、別な感覚(色)として認識される。)
色を扱う多くの方々も正確には正しい理解ではなくても、便宜的に質的量的、目の前に有る物(客観的対象物)と同様な扱いをする事で色を理解しているのではないでしょうか?
さて、色覚説には大まかに分けて、三原色説と反対色説と有ります。「三原色説」は色を質的量的、客観的概念に近い感覚で説明された説、「反対色説」は経験的、感覚的、主観的概念を全面に説明された説と私は理解しています。(「石原説」は後者からの派生)また、「三原色説」は光学等の分野では広く応用され普及していますが、「反対色説」は現実的な応用範囲が殆ど無い為、色覚説と言う場合、「三原色説」の事を指すのはその為と思われます。
ところで、色覚の専門家や眼科の先生が色覚異常について説明したものは、なぜ「三原色説」での説明が殆どなのでしょうか? 多くの方が(主観的)色を(客観的)質的量的、物と関連付け理解している様に、先生方の色覚異常に対する理解も(主観的)色の見え方を(客観的概念に近い)「三原色説」を元に、有るとする三種の網膜円錐体と関連させ、色の見え方の症状を円錐体(客観的な物)の有無、機能不全とする事で理解されているからではないでしょうか?
「三原色説」を元にした理論では「石原式色覚検査表」を論理的に説明する事が難しくても、それをスクリーニングのみの使用とする事で、一般方々の色に対する理解と通ずるものとして、現代医学は色覚異常を説明しようとしているのでしょうか?しかし「石原説(表)」「反対色説」「補色法則」等で感覚(主観)としての色覚理論を理解すると質的量的、三原色的概念だけで説明出来る事柄では無いと分かり「色をその様に表現するのは、あくまで便宜的な事柄として利用する為」との見解を理解できる様になります。
本質を扱う、医、科学の分野は、「三原色、反対色説」の違い、色覚異常の症状の違いも眼の構造、発育との関連によって収拾し説明する「石原説」であるべきと思えます。
仏教の経典「般若心経(はんにゃしんぎょう)」の中に「色即是空(しきそくぜくう)」というお経の句が有ります。その中の「色(しき)」は現在日本で使われている「色」の意味とは違い「物、形」としての概念も含むそうですが、「見えている物(色)すなわちそれは空である(感覚的なものに過ぎない)」と考えると、このお経の持つ意味の一端を理解出来る様になります。
色とは、物(の性質)でも光(の性質)でもない、目で感じて有ると思う事の出来る人の感覚なのです。 |
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