「色覚異常は医療で治せないの?」と質問を受けた時、多くの方が、「遺伝だから治らないよ(治せないよ)。」とお答えになるのではないでしょうか?
私には疑問があります。…
「 遺伝だから治らない、治せない。」とはどういう意味なのかと…?
「人体」を「遺伝」という視点から考えると、「人体は、遺伝的な因子を元に、環境的なものが加わる事で、出来ている。」と言えるのではないでしょうか? 次に、(西洋医学に於ける)医療とは、その遺伝的因子を元にして出来た人体に、外科療法、薬物療法、看護、リハビリ、それと医学的な検査を行う事を言うのではないでしょうか?
色覚異常に対する治療法を西洋医学から考えると、
「どの治療法をもってしても色覚異常を治せる、これだ!というものが見当たらない。」言い換えれば、「的確な治療手段を西洋医学は持っていない。」ので現在まで治療不可とされてきたのが「色覚異常と言う病」と言えるのではないでしょうか?
また、最近の西洋医学には「遺伝子組み換え」「再生医療」などの先端医療もありますが、途上であり、医療として確立されるまでには、まだ時間がかかるのではないかと思います。しかし、そもそもそれら先端医療をもって、赤緑色覚異常が克服できるものなのか?私には疑問に思えます…。ちょっと違うかもしれませんが、西洋医学では、休養を取らせるなどの方法しかないけれど、東洋医学では、殆どの場合、あっさりと治ってしまう自律神経疾患のようなものと、個人的には赤緑色覚異常を考えています。
感覚である色覚を「遺伝するもの」という先入観念?によって、色覚異常を遺伝子や三原色説を元に(再生不可とする)網膜視細胞の異常とする事で「不治」としたり、 人体の設計図とも言える遺伝子によって色を感じている訳でもないのに、治療出来るとするなら「遺伝子療法」等と言われていますが、それらを説明する
三種の錐体説や
網膜異常説では人の色覚や色覚異常のメカニズムを万人が納得出来る形で解説されていないのではないでしょうか?
「石原説」から赤緑色覚異常を考えると、遺伝子や網膜に欠損が生じるような遺伝的欠陥が本当に生じているのか?正直かなり疑問に思えます。
また、聴覚、味覚、嗅覚、触覚等も色覚同様、人の感覚ですが、それらが先天障害である場合、現代医学では赤緑色覚異常と同じく、「不治」としているのでしょうか?そして、それらを、もし治すとするなら「遺伝子療法」なのでしょうか?(よく考えれば、巧みな論理のすり替えがされているとしか思えない。)
(遺伝によってできた)人間の体を何らかの形で治してあげる、あるいは、病的な症状を抑えてあげる、軽減してあげるのが医療です。
色覚異常の本当の原因が、どこなのか(何なのか)よく分からなかった事と、(西洋)医学では、施しようのない病を先生方のある意味、患者に対する方便として言われてきたことが、「遺伝だから治らない(治せない)。」という言葉ではなかったのかと私には、思えますがいかがでしょうか?
また、遺伝による色覚異常の事をよく、「先天的(性)色覚異常」と言います。「先天的(性)」という言葉は、「生まれながらにして持っている事」と言う意味であり、その事によって「変える事の出来ない事」そんなイメージが、色覚異常に定着していったようにも思えます。現代医学では、色覚異常を、人種による肌の色、髪の毛の色、目の色、または血液型、性別など、本来、変える事の出来ない遺伝的な個体差の違いと同様な事柄 (疾病、疾患とは違うの意) であるとして「見え方の個性」としていますが、果たして本当に正しいのか?かなり疑問に思えます…。もしかしたら、これも方便なのでしょうか?
もし「遺伝だから治らない。」という言葉が、正しいと考える事が出来るとするなら、遺伝によって、色覚に関わる部分に何らかの奇形、あるいは、欠損(形状的な違い)が生じた場合に限られるのではないかと思います。(
全色盲など。 「石原説」やその病的な症状から、網膜における視覚細胞の発育障害と考えられると思います。それこそ先端医療による医療技術の開発が待たれる事と思います。)
癌は最近では、遺伝的な要因(遺伝的な体質)が大きく影響している事が、言われていますが、(西洋)医学においても、かなり克服されつつあり、「遺伝だから治らない」と言う言葉が真実であるとするなら、癌も施しようのない病となってしまいます。もっと言わせてもらえば、「遺伝によってできた人体は、治療することができない」と、なんと医療を否定する事となってしまいます。
でもそれでは、あまりにも先生方の立場がありませんので、色覚治療の歴史を少しひもときますと、
「
色覚治療は、挑戦と、それに伴う失敗の歴史であった。」と付け加えておきます。
医学書では理解しづらい(よく分からない)、色覚異常による見え方の原因について ウェブサイトや各種書物を手がかりに紹介したいと思います。
目 次 1. 医学書以外の眼の機能解説|
2. よく分らない色覚異常者の見え方|
3. 補色残像、二極性、四原色、眼の色覚認識|
4. 視神経の異常が原因
色覚異常を扱った医学書、専門書、ウェブサイトなどで、健常色覚者と赤緑異常者との色の見え方の違いはどこから来ているのかを、調べてみると、「遺伝によって、眼の網膜に何らかの異常があるから、見え方が、健常者と違う。」と主張しているものが殆どだと思います。
しかし、眼の網膜がどの様に健常者と違うのかを示した、何らかの証拠(写真など)を私は見たことがありません。また、その説明となると、視細胞の一部欠損(二色型、色盲)、機能不全(三色型、色弱)、あるいは、赤異常(第一異常)、緑異常(第二異常)などとして、色覚異常を、いろいろなタイプに分類されてはいるけれど、「検査機器がそれらをはっきりと区分できる精度が無い。あるいは、もともと区分できるものではない。」現実を考えると、「見え方の根本的な原因に関して、はっきりとした見解が示されていない。」その様に私には思えます。(例えば、
アノマロスコープなどによる精密検査でも人間の感覚を頼りにしている事に変わりがない。)
1. 医 学 書 以 外 の 色 覚 に 関 係 す る 眼 の 機 能 解 説 記 事
先ずは、
「 映 像 と 色 彩 」 Ritsuko Toyouraというウェブサイトです。(個人が運営するウェブサイトですが、勝手にリンクさせてもらっています。)
色彩学を学ばれた、Ritsuko Toyouraさんという方が、お作りになったページですが、そこの「Color」「いろのはなし2」を開きますと、
「人間の眼は発生学的には脳の一部が突出したものとみなされています。」とあります。ここの部分が、何かヒントになるのではないかと思います。
「見る」という行為は、「眼」以外の部分(視神経や脳)とも深い関係がある(色覚に関する機能も含めて)のではないか?そんな予感をさせる記述です。
次は、
「目は、眼球と視神経から成り立っており、視神経は、太い円柱状で約120万本の神経繊維の束です。私たちが、物を見ると言ったとき、光が、目の、角膜、瞳孔、水晶体、を経て、網膜に到達します。この時点で、見えたことになるかというとそうではなく、網膜に、投影された映像が、光の刺激から、電気的な刺激に変換され、視神経をとおり、大脳視覚中枢に送られ脳によって処理されることにより、視覚は成立する。」
(地元公立図書館の蔵書コピーです。「眼と脳との関係」を記述した物には多くあると思われます。)
眼と脳をつなぐ
視神経の数にちょっと驚かされます。さて何のために120万本の神経繊維の束が有るのでしょうか?
※因みに、「犬の視神経は約17万本しかない」そうです。また、犬の色覚スペクトルを見ると、人間とは違い
■青■黄の二色視であることが分かります。 (
子犬のへや 犬の目・視覚)より
(また、このウェブサイトのマスコットにしているカラス君も犬同様、
■青■黄の二色視である事がよく知られています。カラス対策用に開発された半透明ゴミ袋が
■黄なのは、その色が強く見えている色覚特性を利用し、「頭のいいカラスにも中に入っているものが何であるか見えなくする為」だそうです。)
その次は、
「人間の眼の色再現過程はヤング・ヘルムホルツの三原色の原理に基づいている。つまり、約400mμ〜700mμの間の各波長光のそれぞれに対して感じる多種類の感覚器が働くのではなく、■青、■緑、■赤の三原色に対する三種の感光物質が働くものと考えられている。しかし、網膜においては■青、■緑、■赤に対して別々に感じるような三種類の円錐体は解剖学的に認められないと言われているから、視神経を通じて大脳に伝達される過程において、これら三種に相当する感光物質が働き、■青、■緑、■赤、三種の色像の重なり具合いによって種々の色感を生み出すものと想像されている。」
(改訂 写真技術ハンドブック 著者 脇リギオ (株)ダヴィット社 フィルム時代の年代物の本です。)
一般的に信じられている(医学書などに書かれている)「眼の色再現過程」とはかなり違う見解が書かれています。なぜこんなに違うのでしょうか?
2. 医 学 書 で は よ く 分 か ら な い 色 覚 異 常 者 の 見 え 方
| 光 の 三 原 色 図 |
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| 赤黄緑の混色関係図 |
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現代医学の説明(見解)だと、
網膜に
■青■赤■緑を受容する三種類の錐体があり、赤緑異常者は
■赤または、
■緑の錐体が機能不全(色弱)、もしくは欠損(色盲)しているとしていますが、
■黄が
■赤と
■緑の合成によって出現する色の感覚であるとすれば、色覚異常者の
■黄に対する見え方が、正常者と同等以上である色覚特性を説明できてないのではないでしょうか?現代医学におけるこの部分の解説は、
小眼科学では推定として説明されているように、旧来から言われている「三原色説を用いた仮説なのではないか?」と思われます。
補足では有りますが「
色とは、光線そのものの性質ではなく、人間の感覚である。(言い換えれば、光が、人間の眼に入り、その波長の相違を刺激として感じ、色という感覚を引き起こしている)」
(参照)事からすると、もし
■黄が
■赤と
■緑の合成によって出現する感覚であるのなら、何故、その色の感覚に
■赤っぽさも
■緑っぽさも感じないのだろうか?
(感覚として
■黄は、
■青より色相が
■赤■緑の方に近いことは理解できるが、混色とは違う。)
赤緑異常者の様に、
■赤と
■緑の感度が劣っていても
■黄だけは色覚正常者と同等以上に見えている事実は、たとえ人間の目には純粋な
■黄の波長の光と
■赤と
■緑の合成による
■黄の波長の光を殆ど区別ができないとしても、
■黄として感ずる視細胞が有ると考えるべきではないでしょうか…?
また、
■橙や
■黄緑を
■赤と
■緑の中間色として認識しているのではなく、
■橙は
■黄と
■赤の中間色、
■黄緑は
■黄と
■緑の中間色として認識していることからも、そこに原色感覚としての
■黄を認識する視細胞が有ると考えるべきと思えます…。
更に、現代医学では検査で、第一(
■赤)異常、第二(
■緑)異常などと区分される為、
■赤のみ
■緑のみ異常が有るかのように誤解されやすいなど、三原色説を元にした?
現代医学の色覚理論では■赤■黄■緑の関係性に対して、はっきりとした見解を示すことが出来ていないと思えます。
同様に、
白(無色)ついても、
白が錐体によって生ずる色の感覚であるのなら、赤緑色覚異常者でも網膜には
■青を受容する錐体の他に、その
補色(反対色)である
■黄を受容する錐体がなければならないことになり、現代医学の様に赤緑色覚異常を
■赤または
■緑錐体の機能不全、欠損という説明では理論的に無理があると感じます。(色覚正常者、異常者どちらも同様な感覚として
白(無色)を認識していると考えられる。)
正常色覚やテレビ画面の原理を説明するのに「三原色説」でも有効とは言えると思いますが、「三原色説」による色覚異常の解説を額面通りに受け取り、テレビの画面から
■赤や
■緑を取っても、色覚異常の人が見ているような世界として見えるようには決してならない事からも、人の目は「三原色説」では、説明することができないと理解できます。
※「石原説」と上記の「
網膜には三種類の円錐体は解剖学的に認められない」との見解が真実であるとすると、
視神経を通じ脳に伝達される過程においても色感を生み出す何らかの働きがあると考えた方が理にかなった解釈となるのではないでしょうか?
3. 補 色 残 像 、二 極 性 、 四 つ の 原 色、石 原 説 で 理 解 す る 色 覚 認 識
| 補色残像の体験 | |
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目の
網膜や
視神経がどのような仕組みになっているのか?また「色を感ずる」とは一体どのようなメカニズムによるのか?それらを知ることは、専門的な研究者でもなければ分からないことですが、色覚における「
補色残像現象」(
Google)は
■青■黄と
■赤■緑、それぞれの補色(反対色)関係が、切っても切れない補完的な感覚である事を示しているとも思えます。むしろ、一体的な感覚とさえ感じます。
石原先生が「人の色覚は
無色から
■青■黄への分化、更に
■黄から
■赤■緑への分化によってできあがる」と解説された事の証明とも考えられます。(原色感覚の
■青■黄と
■赤■緑が一対として機能している事を、体験的に理解できる。)
「
補色(反対色)関係」とは、例えると感覚における、明暗、暖かい寒い、熱い冷たい、甘い辛い、身体の調整機能としての交感神経と副交感神経、あるいは自然界の、プラス-マイナス、陽陰、NS極、といった「
二極性」と同様な事柄(相似的な事柄)と考えられると思います。(それらも自然界や身体に対し、一対として機能している。)
また、人が哲学や自然科学で用いる主観客観、主体客体も自然界から体験的、経験的に得た言葉ではないでしょうか?
補色関係にある
■黄は
暖色であり、
■青は
寒色、反対色関係の
■赤は
暖色、
■緑は
寒色です。また、人の色覚に
■赤っぽい
■緑とか
■青っぽい
■黄などという感覚が無い事も、そうであるなら理論的にも納得できます。(
■青■黄の混色、
■赤■緑の混色は感覚として存在しない。)
人の色覚は、「
三原色説」では全ての現象を説明できないと感じます。「
石原説」もしくは「
反対色説」で説明するべきではないか?と思えます。
色覚理論は、歴史的な経緯もあり「三原色説」をもって殆どの理論が組み立てられているというのが現実ですが、「
石原説を便宜的に説明したものが三原色説」と考えると、スッキリと納得出来るのではないでしょうか?
| 補色関係の色相環図 | |
| | |
「三原色説」では
■赤と
■緑は原色の扱いですが、
■黄は原色から外されています。しかし「石原説での
■赤と
■緑は、
■黄の分化によってできた原色感覚」と考えると、「三原色説は、(原色の)
■黄を色相が近い(分化による)
■赤と
■緑の混色をもって便宜的に表したもの」と解釈でき、本来「人の眼は、
■青と
■黄の混色を
無色(白)として感ずるように、
■黄の分化による
■赤と
■緑の混色は、(原色の)
■黄として感じる眼の仕組み、構造になっている。」と理解するべきではないでしょうか?
※自然界の法則や人間の体の発育や感性がそうであるように、
人の色覚も発育の段階性と、(明■暗)、■青■黄、■赤■緑の二極性をもって完成するようにできていると言えると思います。
自然界殆ど(全て?)の事象や存在が、段階性と二極性をもって発展的、調和的に存在、運行しているのに、現代医学に於ける色覚には、その(発育の)段階性が説明されず、三原色説を用い?、三極であるとするのは(
■青(S)
■赤(L)
■緑(M) 三種の錐体と、その遺伝子の存在を解いているものが殆ど)歴史的、習慣的な経緯として便宜上使用する事には理解出来るが、身体機能としての色覚を説明するのに同様に使うのは的確ではないと思えます。
だから
■赤■黄■緑の関係性に対しても、はっきりとした見解を示すことが出来ないし、石原表に対しては、理論的な説明をすることが出来ない。
色とは感覚ではありますが、時間的、空間(構造)的概念をもって説明することは、人が論理的に色覚を理解する上で必要な事ではないでしょうか?
色覚異常を説明する時に今もって三原色説?で説明する現代医学は、どのような意味が有るのでしょうか?また、それは何の為なのでしょうか?
※
なぜ、テレビは、■黄を除く■青■赤■緑の三原色(光の三原色)で殆ど過不足なく色を表すことが出来るのか?「石原説」から考えると…
テレビなどは、
■青■赤■緑の三原色で殆どの色を表示することが出来るとされていますが、
■黄が無くても
■橙や
■黄緑を表示出来ているように見えるのは、「石原説」から考えると人間の色覚機能が(
■黄の分化によって出来た)反対色関係の
■赤と
■緑を同時、同位置に感ずることが出来ない構造であるために、一方の色(発光を弱くした方の色)を
■黄としてしか感じ取れず、(言い換えると、
■赤■緑の感覚神経は、一対として機能している為、一方の色を感じ取っている時は、もう片方は機能出来ず、
■黄を通り
■赤■緑に分化されている構造により、一方を
■黄としか感じ取れず、)
■赤と
■緑の混色発光でも
■橙や
■黄緑として認識されると理解でき、
■赤と
■緑を同位置、同光量で、発光した場合は、擬似的に人の眼は、その光を
■黄として感じ取る構造の為に、
■黄を除く
■青■赤■緑の三原色でも過不足なく色を表すことが出来ると考えるべきではないでしょうか?
また、
■マゼンダ(赤青)や
■シアン(青緑)を認識時の
■青■黄の関係は、「石原説」より、一対である
■青の感知により、逆に
■黄は機能せず、その分化によって出来た
■赤と
■緑の感知によって
■マゼンダ(赤青)や
■シアン(青緑)として認識していると理解できます。
この様に「
石原説で眼の構造を理解する」と、人の色覚認識を単純に説明でき、網膜では「三原色説」、神経伝達経路では「反対色説」などとして説明する「
段階説」(現在、主流とされる説)は、殆ど必要無いものと思えます。元々「段階説」は双方の説を、いいとこ取りした折半説で、仮説の仮説と感じます。考え方の違う二つの説を神経回路で一つにしても如何様にも解釈できる説としかならないのではないでしょうか?もし三原色反応から反対色反応へ変換する(複雑な?)神経回路が人の色覚機能に本当に有るのなら、色覚異常は赤緑異常が殆どではなく、もっと多様性の有るものであるはず、と思えます。
※2010年、液晶テレビに従来からの「三原色方式」(
■赤■緑■青)に
■黄を加え「四原色方式」を謳う物が大手電機メーカーより製品化されました。デモ映像を電気店で見て、あまりのリアルさ(3D方式でもないのに写された映像が立体的にさえ見えてくる!)にびっくりされた方も多いのではないでしょうか?技術的なことは、よく分かりませんが、今までの「三原色方式」による映像が「霧かモヤがかかっている」とさえ思えるほどに違いを感じました。
また、省電力化にも貢献しているそうで、「石原説」から考えると「四原色方式」だと
■黄を
■赤■緑の二色発光ではなく
■黄の単独発光で済ませられ、
白を三色発光ではなく、
■青■黄の二色発光で作れる事がその理由のなのでしょうか?
それは、「
テレビの色彩映像技術が人間の眼の色覚機能に近づいた…!」と言える事なのかもしれません。 (2011.06.19記)
※「
錯視」と題して、とても興味深い「
補色残像現象」を扱ったページが有りましたので、勝手ながらリンクさせてもらいます。 「
イリュージョンフォーラム」
「
ライラックチェイサー(Lilac Chaser)」と呼ばれている。Jeremy.L. Hinton(イギリス) によって2005年頃発表。点滅する動きを追うとピンクだけが見えます。真ん中のプラスを見つめると緑色が見えます。そのままプラスを20秒ほど見続けるとピンクが消えます。 (2010.09.29追加)
様々な色で体験できる
ライラックチェイサーのウェブサイトを見つけました。
Hinton's“Lilac Chaser” (2012.06.30追加)
4. 視 神 経 の 異 常 が 見 え 方 の 根 本 原 因
更に、
「諸種の眼疾患により色視野に異常を呈し、部分的に又は全視野に色神の減退又は消失を来すことあり。一般に視神経の疾患には■赤及び■緑の色神が強く障碍せられ、網膜脈絡膜の疾患には■青及び■黄の色神が比較的強く侵さる。」
(改訂 第四版
小 眼 科 學 著者 石 原 忍 株式会社 金 原 商 店 昭和9年発行 片仮名部分は平仮名に変えました。)
※同様な記述が、須田經宇先生
(注1)による「石原忍の生涯」にも記載されていましたので、追加いたします。 (2010.02.07)
「色覚異常には先天性のものと後天性のものとがあり、前者は遺伝によるが、後者は病気、中毒などによりおこるもので、色視野の狭窄、欠損をともなうのが普通であり、冒される部位により特徴がある。視束の疾患では■赤と■緑の色覚が悪くなり、網膜、脈絡膜の疾患では■青と■黄の色覚が比較的早く悪くなるが、病気の経過によりあるいは正常にもどり、あるいは全色盲のようになることもある。」
(「石原忍の生涯(色盲表とともに50年)」 著者 須田經宇 講談社学術文庫 (p.84) 1984年刊)
これらの記述を読むと、
網膜では
■青■黄、
視神経では
■赤■緑との関係が強いことが、仮説や推定などではなく、臨床的な事柄として理解できます。
赤緑色覚異常が、先天的、後天的どちらであれ、視神経の何らかの異常が、その見え方の根本原因と考えて何ら差し支えない事ではないでしょうか?
→ | 色 | 覚 の 認 | 識 | → |
| | (青) | — | (青) |
無色 | < | | | (緑) |
: | | (黄) | < | |
: | | : | | (赤) |
: | | : | | : |
自然光 | | 網膜 | | 視神経 |
「先天的赤緑色覚異常は遺伝であり、その原因は遺伝子にある」と現代医学では説かれ、三原色説を根拠に?再生不可とされる眼の網膜上の
■赤錐体、
■緑錐体の欠損、あるいは機能不全として説明されていますが、上記記述には、それらに該当する機能性を眼の網膜上に見つけられないこと。また、「遺伝子と関係するのは、主に視細胞の発育段階であり、色を認識することとは直接の関係がない。」と考えると、その治療法を、「色覚異常の遺伝子を正常化すること。」などという現代医学の主張が、どこか的外れな空論として感じられます。
人の遺伝子(遺伝情報)とは、例えると機械で言う設計図のようなものであり、機械も設計図を直した所で「修理、出来た」とは言えないのと同様、色覚異常も人の遺伝子を正常化した所で、それだけでは正常に色を認識できるようにはならないと考えるべきでしょう。(身体に対して、遺伝情報を元にした何らかの作用が必要。)現代医学に於ける色覚異常は、学問的、慣習的記述と、その本質的、実証(臨床)的記述が混同されていると思えます。 (それは、「言葉の綾」などと言うより「論理のすり替え」?)
その為、現代医学は、色覚異常に対して種々の区分はされていても、それは石原表の理論的な根拠とは成り得ず、また実際見ている色の世界に対する説明も根本的には成されず(出来ず?)、それを飛び越して(種々の区分に対応させた?)遺伝や遺伝子の構造の説明がされる為、遺伝子で色を感じているかの様な誤解、治療に対しても即、遺伝子療法になってしまう不思議さ、どこか不自然な普通の病と違う見解がここから生じてしまっていると思えます。
何かの本で読んだ記憶ですが、「人間が色を見るための脳の色覚中枢は、後頭部、大脳皮質にある」そうです。なぜ脳の後頭部にあるのか?視神経は、単に眼と脳とをつなぐだけでなくそこに何らかの機能性が必要だから、太く長い視神経があると考えると、その必然性が理解できるように思えます…。
※これらの記述から「石原説」における、色覚の
■黄から
■赤■緑への分化は、眼の網膜上(光刺激から、電気的刺激への変換と同時に)で行われているのではなく、電気的刺激が視神経を通る過程で
■赤■緑の色感として生み出されていると理解できます。
また、赤緑色覚異常者でも
■青■黄が健常色覚者と同等以上に見えている事実は、現代医学が主張するように、網膜にあるとする
■赤錐体、
■緑錐体の異常などと考えるより、網膜は何ら(殆ど)異常が無く、健常者と同様であり、視神経に異常の原因があると考えた方が理にかなった解釈となるのではないでしょうか? 「
赤緑色覚異常は網膜上の視細胞の欠如などによる異常ではなく、発育不全による視神経の感覚異常と考えるべき」と思えます。
同様な例として、人の味覚も基本味(甘味、苦味、酸味、塩味など)の混合から成り立っていますが、舌の部位により量的な差があることがよく知られています。しかし、食物を味わう時は、それらを総合した味として感じていると考えると、色覚に関しても同様であると考えて不思議なことではないと思えます。
※
「人間の色覚情報は眼の網膜での、三原色を受容する円錐体(■赤、■緑■青)によって変換処理が行われ、視神経を通し脳に送られ成立しているのではなく、網膜での色覚信号の処理(主に、光刺激から電気的信号への変換、無色から■青■黄の分化)と視神経での処理(主に、■黄から■赤■緑への分化)更に、脳による色覚情報の処理と認識によって成立していると考えていいのではないか。」と思えます。
「
赤緑色覚異常は、眼球と脳をつないでいる視神経に主な原因が有る」と考えられると思います。
色覚異常による見え方の根本的原因、それは、「
眼の網膜の異常と言い切ることは、早計な結論 」そう思います。
(注1)
須田 經宇(すだ けいう)1903年東京生まれ。1928年東京大学医学部卒業、同眼科学教室にて石原忍教授に師事。専攻は緑内障。元日本眼科医会会長、元財団法人一新会理事長、元日本緑内障研究会会長。昭和63年(1988年)9月没。「新眼科学」編集、「原発緑内障の診断と治療」の他、学術論文多数。